坪内逍遙(1859〜1935)は、本名雄蔵、号は逍遙、または春廼舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』(明治18年〜19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遙宅(春廼舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。
逍遙が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。