坪内逍遙旧居跡・炭団坂
住所 / 文京区本郷4−10−13

坪内逍遙旧居跡・常盤会跡

 坪内逍遙(1859〜1935)は、本名雄蔵、号は逍遙、または春廼舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』(明治18年〜19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遙宅(春廼舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。
 逍遙が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。

ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす  正岡子規
(常盤会寄宿舎から菊坂をのぞむ)

文京区教育委員会立て札より


炭団坂

 本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売する者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遙が命じ17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神随」や「当世書生気質」を発表した。

文京区教育委員会立て札より


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